企業資料から読み解く関東大震災
経済を支えていた企業はそのとき
はじめに
関東大震災は、死者10万人・被災者200万人を超える巨大災害でした。なかでも首都・東京は壊滅的な被害を受け、その経済への影響は甚大なものでした。このコンテンツでは、当時の経済を支えていた人々と企業の被災状況を、現在の東京に重ね合わせつつ解説していきます。
地震発生
1923年(大正12年)9月1日11時58分、関東地方南部を震源とするマグニチュード7.9に推定される巨大地震が発生。揺れによる破壊・火災によって、東京・横浜の商工業地区は全滅し、経済機能は麻痺しました。
武村雅之・名古屋大特任教授らが公表したデータを基に読売新聞が作成,制作チームが可視化
翌日の電報
当時の電報は、壊滅的な被災状況を伝える緊迫した状況を伝えています。「日本電報」は、日本電報通信社(現:株式会社電通グループ)大連支局が受信した速報を、中国・大連の邦字新聞社に配信したものです。
「日本電報」 防災科学技術研究所自然災害情報室所蔵
東京市全滅 (二日午前一時二十分長野経由至急) 長野駅着情報によると東京全市における地震の惨害は言語に絶し大廈高樓の軒を連ねて倒潰せるため全市交通杜絶の有様なりしが一日午後0時三十分頃より 市内各所に大火災迫り其の数実に四十八箇所に及び惨憺たる大黒焔天を焦がし天日為に暗し 東京全市を奉げ大火焔の海と化し水道は断絶し消防夫の力盡 (つづき)
避難する人々
日比谷付近の避難民 写真:国立科学博物館、カラー化:渡邉英徳
火災のなか、約100万人の人々が、焼失地域の外縁部にあった上野公園・皇居前などの空地に避難したといわれます。火は広がりながら9月3日朝まで燃え続け、地震被害が少なかった地域においても、類焼によって多数の家屋・建物が焼失しました。
『震災手記』に残る避難記録
帝国データバンク史料館『震災手記』には、帝国興信所 (現:帝国データバンク)社員たちの被災体験が描かれています。ここでは二人の社員の手記を紹介します。
企業の被害状況
東京・横浜では、工場など多数の企業の建物が焼失・倒壊。被害総額は約55億円(当時)ともいわれます。会社史などの記録写真をもとに、被害状況をマップ化しました。
復興にとりくむ
震災によって政府と労働者の紐帯が弱まったこの時期。渋沢栄一は、実業界のリーダーとして、復興に重要な役割を果たしました。83歳という年齢にもかかわらず、労使協調のための「協調会」、財界・議員たちと結成した「大震災善後会」、そして政府による「帝都復興審議会」に参画し、食糧供給・バラックの建設、経済復興政策などに注力しました。
在京罹災埼玉県人救護団バラックを訪れた渋沢栄一,1923年11月17日,個人蔵,カラー化:渡邉英徳
東京の経済は驚異的な復興をみせ、4年後には被災前を上回るほどに回復しました。
『帝国銀行会社要録』第11版・12版より集計。1923年は休刊(帝国データバンク史料館提供)
農商務大臣官房統計課『工場統計表』1922~1927年より作成
農商務大臣官房統計課『工場統計表』1922~1927年より作成
大正大震災から1年
大正大震災から1年。『震災手記』には、帝国興信所社員たちの、心の葛藤や感情が綴られています。彼らは震災の傷跡が癒えぬ中、未来に向けて歩を進めていました。
おわりに
このコンテンツは、「 国立科学博物館 関東大震災100年企画展「震災からのあゆみ -未来へつなげる科学技術-」 の一環として、国立科学博物館・東京大学大学院 渡邉英徳研究室・渋沢栄一記念財団が共同制作したものです。
過去の出来事を振り返るだけでなく、最新の技術を活用し、その出来事を現代の文脈で再解釈できるよう工夫しました。関東大震災が経済に及ぼした影響について、また、将来の災害対策について考えるきっかけになれば幸いです。
東京大学「 戦災・災害のデジタルアーカイブ基金 」にご支援をお願いします。