写真家・安保久武と戦争

「従軍写真家」がとらえた時代

毎日戦中写真には、記者、写真家など多様な人びとの姿が写されています。報道に携わった者の姿を明らかにする試みとして、カメラマン・安保久武氏が残した写真群から足取りを辿りました。

安保久武(あぼ・ひさたけ) 1912年東京・浅草生まれ、千葉県市川市育ち。1935年に東京日日新聞のカメラマンとなる。満州事変勃発直後に大陸へ渡り、北京を拠点に従軍記者として活躍。1942年2月、シンガポール陥落を撮影したカットは、歴史に残る写真となった。幼少期から鳥や動物を愛し、1938年から4年余りの北京支局滞在中は自然や人々の暮らしぶりにもカメラを向けた。1943年帰国すると、正義感から従軍記者証を返却し、軍の召集を受ける。入隊後は報道班員として杭州、漢口などへ従軍し、長沙で終戦を迎えた。帰国後は「東京写真記者協会」設立や「毎日グラフ」創刊に携わり、日本における報道写真分野の確立に尽くす。東京本社写真部長、事業部長、毎日映画社社長などを歴任。晩年は千葉県内で家族や愛犬と過ごした。酒を飲むと北京の初夏の美しさを語り「夜来香」を歌ったという。


「従軍写真家」がとらえた時代

北京在勤中に撮影したプライベートフォトを、原稿用紙に残されたストーリーに沿って辿ります。

1

盧溝橋

北京の駱駝この位軟い北京の表情はないだろう。近代文明の急激に飛び込んできた神経質な都大路に一隊の隊商の通る鈴の音をヂツト聞いてゐたならその瞑想は遠く中央アジアへの憧れの夢にもなろう。(安保)

2

丁香(ティンシャン)

北京に咲く花の牡丹も芍薬も美しい。然し其の美には刺がある。だが同じ春の頃空一杯に香氣を放ちながら咲く丁香(ライラツク)の花には純白の持つ楚々とした乙女の美しさが溢れてゐる。(安保)

3

榮枯の跡

山川草木轉荒涼、渺茫と廣い台地の上に何の意義も無く残されてゐる昔の建物の一端を仰いだ時吾々の頭裏に浮ぶのは榮枯盛衰を偲ばせて此の詩が自然と口をつく。(安保)

4

惜春

桃花が咲くと北京の春はもううきうきして老爺は重い外套を脱ぎ、姑娘は短い袖の旗袍になる。美しい春陽の微笑が小姐(ムスメ)の八重歯に差し込めば紅い桃花一輪春を惜しんで散つて行く北京の春。(安保)

5

青葉の屋根

花のトンネルならぬ青葉の屋根の下目の覺めるやうなドギツイ初夏の太陽が若芽一ぱいの赤外線を射出して科學の目で見た美しさだ。もう肌も汗ばむ北京のひるさがり、道行く人もない静かな西長安街。(安保)

6

そばだてる耳

盧溝橋畔の暁の銃聲を一番最初に聞いた此の駒犬。年は替り月は遷つても永却に変らぬ東亜和平への亜細亜民族の明日の使命を吠えてゐる。(安保)

7

五月の中南海

色彩と森の都北京の人工美を科學の目で戯らするならば、それは又変つた生きゝとした美がみられる。赤外フィルムにポツカリと浮び出た様な玉帶橋と北海の白塔蒙古風の吹かぬ澄んだ空に青春の香がむせる様に漂つてゐる。(安保)

8

帝力なんぞ吾に在らん

小鳥を楽しむ北京人。この位北京人の表現にピツタリ来るものはないかも知れない。「帝力なんぞ吾に在らんや」と言った様なノンビリとした生活徹底した個人主義には憎悪を感じるよりも羨望をさへ時には感じるのだ。(安保)

9

緑なす王城

景山には白松が多い。梢から透かして見る緑の北京は何とも言へない新鮮な王城である。(安保)

10

盧溝暁月

日本人ならば此の碑を讀んだ時各人各様の餘りにも大きな感情にぶつかることだらう。吾々の筆を加へるべきではない。只この乾隆御筆の碑の石摺(ズリ)の賣上げが事変後盧溝橋を持つ宛平縣城の大きな収入になつてゐると言ふ小さな事實を報告するだけだ。(安保)

11

琉璃瓦

蒼空の色にならつて造られたと言ふ紺青色の瑠璃瓦。これこそ天壇の美を代表する最大の物だらう。一つ一つ瓦に刻明に美しい彫刻がしてある。(安保)

12

奴隷文化

ドツシリとした城壁に圍れた金色の瓦に輝く紫禁城。それは全く壮麗なものと言う外はない。然し此處に咲いた王朝文化が如何に支那全土よりの搾取に築かれた奴隷文化の華であることも忘れてはならない。(安保)

13

王府井の表情

暖かさうな洋品店のウインドの前に寒さと飢えに疲れた花子(ホワズ・乞食)の子が寝てゐる。綺麗な温い衣類の店先に寝る子。彼もやはり人の子である。(安保)

14

北京好日 御河橋にて

頬を撫でる風は冷たい。夕照に家路を急ぐ若い太太(タイタイ)と子供と母が大きな影法師を踏み乍ら。秋の陽は西山に落ちて行く。(安保)

15

太廟

清朝歴代帝后の神位を祀ってある所明代の豪壮な建物が大理石の台石の上に聳へてゐるのは素晴らしい偉觀だ。これはその廊下の一部だが深紅な柱が往時行はれた儀式の数々を思ひ起させる。(安保)

16

雪の萬壽山

北の國の空は重い。ドンヨリとした灰色の世界に田も往還もそして昆明湖も美しい深い冬の眠りである。(安保)


大戦目前 大陸を撮る二つの視線

安保氏が業務で撮影した写真/プライベートフォトの分布を都市別に可視化しました。

業務で撮影した写真の分布

個人で撮影した写真の分布

北京

天津支局時代、中華民国臨時政府成立時に(1937年12月)、北京に取材に赴く。この時の市内の様子を撮った写真は貴重。つづけて北京支局勤務時代(1938年4月~1941年11月)は、日本占領後の市街区および郊外で集中的に治安状況の取材していることがうかがえる。また、盧溝橋そばの一文字山で毎年開催される追悼行事、太廟での慰霊祭、新民会成立などのイベント、故宮、北海公園、中央公園、頤和園、東嶽廟などの観光地や、市街地の生活模様を撮影していることも確認できる。北京一帯以外の開封、武漢などに点在している場所では、拡散する戦況が写しだされている。

天津

最初の赴任先である東京日日の天津支局には、8か月ほど滞在(1937年7月~1938年3月)。赴任直後は、盧溝橋事変直後であったためか、取材地はおもに日本軍司令部がある海光寺周辺や日本租界エリアに集中している。1938年1月からは津浦線(天津~南京対岸の浦口)沿いで戦況取材をおこなったため、天津の写真は多くはない。ただ、北京支局に異動後も天津取材にかかわっており、1939年6月に起こった英仏租界の封鎖については集中的に取材している様子がうかがえる。

上海

上海支局には1週間もいなかったために(1941年11月24日~29日)、上海の写真はほとんどない。上海租界から撤退する米国海軍の行進の様子くらいである。上海からは船で舟山群島、廈門、汕頭を経由して、太平洋戦争勃発の前日に12月7日に広州の広東支局に到着したことが辿れる。なお、長江流域では、北京支局時代に南京に取材に赴いており、出征後(1943年7月以降)には蘇州や杭州、漢口に侵攻し、終戦を長沙(湖南省)で迎えている。

香港

1941年12月8日の太平洋戦争勃発当日、広州で広東沙面租界回収を取材している。その4日後に香港の戦いを取材するために香港支局に移動するが、滞在は1ヵ月弱。おもに12月25日の香港陥落、28日の香港入城式をはじめ、その直後の香港島と九龍半島の英軍施設を取材している様子がうかがえる。1942年1月7日には早くもマレー戦線取材のために香港を離れている。

シンガポール

1942年1月からマレー縦貫鉄道を越えて続々南下する日本軍とともに前線取材のためマレー半島を南下。クアラルンプールを経て、ジョホールバルに到着。シンガポール島のジャングルをかきわけて、ブキテマ高地を攻略し、シンガポール陥落、2月15日開催の英軍パーシバル陸軍中将の無条件降伏書調印に至る取材ルートを跡づけることができる。

バンドン・バタビア

1942年3月にバンドン入り、占領第一日の取材にあたる。バンドン市内の戦況被害の撮影。この町で父親の死を知る。翌月にはバタビアに移動。ボインテンゾルグ植物園を中心に取材を続け、その後一時帰国の途につく。